約 274,959 件
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/14.html
何を「ニセ科学」と呼ぶか条件その1 「科学ではないもの」とは? 条件その2 「科学を装っているもの」 応用編:「未科学を装っている」場合 何を「ニセ科学」と呼ばないか「広義の非科学」だが科学を装っていないもの 何を「ニセ科学」と呼ぶか 科学ではないのに科学を装っているもの。つまり「科学ではない」と「科学を装っている」の両方を満たすものをニセ科学と呼ぶ。単に「科学ではない」というだけのものは「ニセ科学」の条件を満たさない(何を「ニセ科学」と呼ばないか、の項を参照)。 条件その1 「科学ではないもの」とは? 最初に「科学ではないもの(広義の非科学)」を列挙する。 反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの (ポパー的非科学) 反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの (間違った科学) 反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの(間違った仮説) 反証可能だが実証も反証もされていないもの(未科学) よくある誤解として「非科学とは反証不可能なものの事である」というものがある。要するにポパー的なものだけが非科学だとする考え方である。しかし上記の分類より明らかなように、ポパー的非科学だけが非科学ではない。従って「反証可能だから非科学ではない」という言い分は通用しない。 また4.を未科学と呼ぶのは、4.だけが将来的に科学になる可能性を秘めているからである。 条件その2 「科学を装っているもの」 そして、これらの中で「科学を装っているもの」がニセ科学と呼ばれる事になる。 但し「装っているかどうか」の判断はなかなか難しく、議論の余地があるところである。ここでは「科学者ではない一般の人達の目から見て、見かけと実態との間に明確なズレがある場合」に「装っている」と判断する事にする。 つまり「科学の専門家から見れば科学的でないことが明らかでも、一般の人には区別がつかない」場合は「装っている」に含まれるので「ニセ科学」である。もっと言えば、当該分野にある程度詳しい人が「こんなモンに騙されるなんて、馬鹿じゃないの」と思ったとしても、それでニセ科学性が否定される訳ではない。 まとめると「装う」とは以下の条件のうち「少なくとも1つ」を満たすものといえる。全部を満たす必要が無いのは言うまでも無い。 情報の発信者が科学だと誤解させる意図を持っているもの。 通常の理解力と常識をもってしても科学であると誤解しうるもの。 実際に誤解した人が無視できない数存在すること。 抽象的な話ばかりでは何なので「装っている」と看做せる例を挙げる。 用語の混乱 既存理論の否定もしくは超越 体験談の極端な重視 応用編:「未科学を装っている」場合 実は「科学ではないのに科学を装う場合」だけでなく「科学でも未科学でもないのに未科学を装う場合」も「ニセ科学」とみなせる。何故なら、上で述べた様に「未科学だけが将来科学になる可能性を秘めている」からである。 つまり、将来的にも科学になる可能性が全く無いにも関わらず、あたかもその可能性があるかの様に「装う」のも「ニセ科学」の一種なのである。 これはなかなか巧妙なやり口である。「可能性」に言及しているだけなので、一見すると慎重で公平であるという印象を与える事も出来るからである。 何を「ニセ科学」と呼ばないか 「広義の非科学」だが科学を装っていないもの 上記の定義によれば「広義の非科学」であっても、科学を装っていなければ「ニセ科学」には該当しない。繰り返しになるが「広義の非科学」には以下のものが該当する。 未科学(検証されていない仮説) 間違った科学(既に反証されてしまった仮説) 間違った仮説(既存の科学から見て明らかに否定されるもの) そもそも科学を装っていないもの(宗教、オカルト):これらはポパー的非科学の一部といえる。 但し、これらのものが「科学を装う(あるいは未科学ですらないのに未科学を装う)」とニセ科学の仲間入りをする。即ち 検証されていない仮説を検証済みのように紹介する 既に間違った科学であることがわかった後も「間違いではない(可能性がある)」と強弁する 仮説そのものが間違っているのに「間違っていない(可能性がある)」と強弁する 宗教やオカルトに対して一見科学的と思える説明を付加する というような事をすると、ニセ科学と呼ばれる事になる。
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/17.html
ニセ科学の定義 (簡略版) (→より詳しく) 何を「ニセ科学」と呼ぶか 「科学ではない」のに「科学を装っている」もの。 「科学ではない」 反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの (ポパー的非科学) 反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの (間違った科学) 反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの(間違った仮説) 反証可能だが実証も反証もされていないもの(未科学) →もっと詳しく 「科学を装っている」 「装っているかどうか」の判断は難しいが,科学者の目から見て明らかなデタラメであっても,ごく普通の人が科学だと誤解しそうであればそれは「ニセ科学」とすべき. →もっと詳しく 何を「ニセ科学」と呼ばないか 科学ではないだけで,科学を装っていないものは「ニセ科学」とは呼ばない. 宗教・オカルト・おとぎ話・etc. 単に間違った科学 未科学 但し、以下のような事をすると、ニセ科学と呼ばれる事になる。 宗教やオカルト→一見科学的と思える説明を付加 間違った科学→既に間違いであることがわかった後も「間違いではない」と強弁 未科学→検証されていない仮説を検証済みのように紹介 →もっと詳しく 定義にまつわる諸問題 グレーゾーン問題 科学と非科学の間に明確な境界線を引くことはできない。グレーゾーンは存在する。 しかし「グレーゾーンがあるのだから,結局科学と非科学は区別できないのだ」というのは極端な相対主義。白と黒はグレーのグラデーションをはさんで連続的につながっているが、白と黒は区別できる。 批判の対象となっているのは「真っ黒」なのに黒くないと主張するもの、あるいは「グレー」なのにグレーではないと主張するものである。 →もっと詳しく 「装う」とはどういうことか →「装う」という語の多様性 何故ニセ科学を批判するのか 人それぞれ 「ウソはいけない」 「結局損をするからやめよう」 「科学の発展を妨げる」 「社会が住み難くなるのは嫌だ」 「(初等的なレベルの)間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」 etc... →もっと詳しく
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/24.html
そもそも、ニセ科学批判とは何か 批判する目的とは何か 「科学的な間違いの指摘」が最終目標なのではない! そもそも、ニセ科学批判とは何か ニセ科学を批判する事である。それ以上でもそれ以下でも無い。 つまり「ニセ科学批判」とは個々のニセ科学批判行為から共通する部分をまとめて表現した、言わば最大公約数的な抽象概念である。従って、現実に存在するのは個別のニセ科学に対する個別の批判であって「ニセ科学批判」という名前の行為は実在しない。 例えるなら「スポーツ」という名前のスポーツは実在しないので「スポーツをする」と言った場合、実際に行うのはジョギングや野球等、個別の競技である。これと同様に「ニセ科学批判」という名前の批判行為は実在せず、実際に行われるのは「マイナスイオン批判」や「血液型性格判断批判」等の個別の批判行為なのである。 批判する目的とは何か 理想を言えば「ニセ科学の撲滅」なのだろうが、それは現実にはまず無理である。何故なら、誰にでも「非合理的なものも信じたい」という本能的な欲求があるから、ニセ科学を口にする人を完全に無くすのは殆ど不可能だろう。しかし完全に無くすのが無理だからと言って、何もしないのもどうかと思う。現実的な目標としては「ニセがニセであると世の中に広く認知される事」あたりになるだろう。 また、これとは全く逆に「ニセ科学を吊るし上げて仲間内で楽しんでいるだけ」という意見を貰う事もあるが、それも極端な評価である。もし本当にその通りならば、こうしてWikiを公開したりもせず、招待性SNSの中とかだけでやっていれば良い事だろう。面映いのでこういう言い方はあまりしたくないのだが、少しでも世の中の状況を変えたいという気持ちがあるから、やっているのである。 「科学的な間違いの指摘」が最終目標なのではない! 「科学的に間違いを指摘する事」は批判のスタートラインであって、ゴールではない。現実に行っている行為として、どうしても間違いの指摘が目立ってしまうので、それだけが目的の様に見えてしまうのかもしれない。しかし実際には、間違いの指摘は「クリアすべき前提条件」とでも言うべき部分である。
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/12.html
全般 ニセ科学まとめ ニセ科学入門 視点・論点「まん延するニセ科学」 - うしとみしよぞ asahi.com:ニセ科学:1(菊池教授) - 紙上特別講義 - 大学 - 教育 PSJ渋谷研究所X 私家版「ニセ科学の基本用語・簡易版」β1 疑似科学を見分けるチェックリスト - Skeptic's Wiki 物理学会でのシンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」について 事象の地平線 ニセ科学の定義と判定について考える, 続き ダメプログラマーのお勉強 ニセ科学批判のFAQ ニセ科学批判批判のための検索(仮) (by A-WINGさん) 個別の問題について (ここに挙がっていないものは批判されていない *というわけではありません*.) 「水からの伝言」 「水からの伝言」を信じないでください 「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ Hal Tasaki’s -〈log p〉 水は答えを知っている 思索の海 - 「水からの伝言」に言語学の立場から反論する 朴斎雑志 水に芸術はわからない 鴉工房 「水からの伝言」って何だ 『水からの伝言』の2つの側面 - 『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録 【作成中】『水からの伝言』の基礎知識【基礎編】 水は答えを知っている - Skeptic's Wiki マイナスイオン マイナスイオン - Skeptic's Wiki 科学的根拠をうたったネット広告にご注意!"「マイナスイオン商品」表示を科学的視点から検証しました" -- 東京都 各種「水商売」 水商売ウォッチング ゲーム脳 斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1 Interdisciplinary ゲーム・ゲーム脳関連リンク集 -- ゲーム脳Q&A EM菌 EM菌 まとめ(仮) - 妄想科學日報 ホメオパシー ホメオパシー - Skeptic's Wiki ホメオパシーFAQ (1, 2, 3, 4, 5) - Skepticism is beautiful
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/13.html
ありがちな不毛な議論「○○はニセ科学である」ということには異論がない人による,ニセ科学批判への批判ほっておけばいいじゃん そんなやり方じゃダメだよ…"批判の仕方"批判 ○○がニセ科学かどうかにあまり興味がない?人による、批判への批判仲裁の形をとるもの 何か一言、言わずにはいられない人達 ニセ科学だと指摘されているものを、ニセではないと信じている人による反論科学の方法論に関する無理解 相対主義の悪用・誤用 「ニセ科学批判」批判についての考察 ありがちな不毛な議論 「○○はニセ科学である」ということには異論がない人による,ニセ科学批判への批判 ほっておけばいいじゃん 「そんなものに関わるより科学者としての本業に専念しろ」 代表的な反論を3つ紹介する。 本業というが、社会に貢献する事も科学者としての責務であると考える。社会の科学リテラシーを高めるのも、広い意味では科学者の「業」に含まれるのではないか。 自分は科学者である前に一人の社会人である。勿論科学に関する知識はあるので「科学に詳しい個人」としてウソをウソだと指摘しているだけである。 ニセ科学が跳梁跋扈する社会は、科学者にとって非常に住み難い社会だし、多くの人も知らないうちに科学の恩恵を受けられなくなるだろう。自分は、普通の人々の生活と科学者としての自分の生活、その両方を守りたいから行動している。 「○○なんて俺はすぐニセだと解ったよ.そんなの信じるヤツいないよ」 貴方はそうなのだろうし,貴方の周りもそういう人達なのかもしれない.類は友を呼ぶものだ.でも試しに○○でブログ検索をかけてみたほうがいい.何の疑いもなく受け入れている人達がビックリするほど沢山いる,ということもある.そして実は貴方も,別のニセ科学を信じこんではいないかどうか,考えてみたほうがいいかもしれない. 「たいしたことない」「そんなに目くじら立てなくても」 「ニセ科学が広まるのは良いこととは思わないが、熱心に批判するほどのことでもない」と判断する人はいるだろう。それは個人の自由。ただあまり興味がないのなら、わざわざ批判活動を邪魔するようなことはしないでおいて欲しい。別に「お前も批判活動しろ」と無理強いしているわけではないのだから。 「誰が何を信じようといいじゃないか,自己責任だ」 他人に対して一切何の影響力も持たない人がいたとしたら,その人が何を信じようがその人の勝手で放っておけばいいだろう.しかし「他人に対して一切何の影響力も持たない人」なんているだろうか? 「放っておけばいい」「批判なんてしなくていい」という意見の人は,多くの場合「アホな人達の間でニセ科学が広まったって,利口な俺様はそんな代物とは無縁でいられる」と考えているように見受けられる.どんなニセ科学だって自分の力で見抜けるという人がいるのかどうか(科学者であっても)かなり疑問だが,それについては置いておくとして,たとえ自分がいかなるニセ科学にもひっかからなかったとしても,ニセ科学の蔓延による不利益を被らずにすむわけではない.例えば家族が何かのニセ科学を信じこんで高価な"健康グッズ"を買い込んでくるかもしれないし,会社の上司がはまって困った業務が回ってくるかもしれない.マンションの管理費が貯水槽に高価で無意味な"浄水器"を設置するのに使われるかもしれないし,会ったこともない人達が"現代医療"よりニセ科学を選んだだめに感染症が流行って自分も感染してしまうかもしれないし,etc... そういうもの全てから無縁でいられるのは,山奥に籠った世捨て人くらいなんじゃないかな. そんなやり方じゃダメだよ…"批判の仕方"批判 もっと他に大事なことがある 「Aを取り上げるならBを取り上げないのはおかしい,Bも批判しろ」…優先順位問題「Bを批判するべき」と思うならその人が批判するべきである←言い出しっぺの法則.個々人がやれることには限りがある.それぞれの優先順位でやれることをやる以外にない. 「ニセ科学の蔓延よりも○○(例 雇用,年金,安全保障,etc...)のほうが重大な問題だ」優先順位問題の一種だが,重要性を比較する対象として他の社会問題を持ち出す例.「個人が直接関われる問題の中で何をするか」と「社会として最も優先的に取り組むべき問題は何か」という階層が異なる2つの話を混同しており,有益な議論につながらない.大抵の場合,○○に入るのは多くの人が「社会として取り組むべき問題である」と考えているようなものである.それをわざわざ表明するということは,「ニセ科学批判に力を入れている人はその他の社会問題を重視していない」という主張しているに等しいが,そういう自覚はないことが多いようである. 「俺の脳内信者はそんな説明じゃ説得されない」 有効な批判・説得の方法を議論するのは意味がある.しかし,実際に「信者」との対話をしたことも対話を見たこともない人による,「そんなやり方じゃダメだと思うよ!」という意見から有益な議論に発展する例は少ない.そもそもニセ科学批判の多くは「信者」を説得することを目標としていない。半信半疑or軽く信じてるくらいの人が判断するための材料を提供しているのだ。 「批判はすべきだが、連中のやりかたはおかしい。自分ならもっとうまくやれると思うが、やる気はない」 …さようでございますか。 「『信奉者を説得するつもりはない』なんて冷たいんじゃないの?」 信奉者の説得を試みることを否定しているわけではない.説得できるならば,もちろんそのほうが良いだろう.しかし残念なことに,どんなに言葉を尽しても説得が通じない相手は少なからず存在する.「信奉者を説得するつもりはない」という言葉は,説得を試みた経験から出ているのだ.説得されることを拒む相手を説得するには大変な根気が必要で,しかも成功する可能性は低い.そういう相手と1人ずつ向き合うには,あまりにもリソースが足りない.というわけで,現在ニセ科学を批判している人にさらに「信奉者の説得」を負わせようとしないで,是非とも心優しいあなたが説得してみてください. ○○がニセ科学かどうかにあまり興味がない?人による、批判への批判 仲裁の形をとるもの 「ケンカをやめて or 弱い者いじめはよくない」 "批判の仕方"批判に似て見えるが、内容ではなくやりとりの見た目にのみ着目して、(主に)批判側を批判する例。"ニセ科学批判"と称して罵倒・人格否定するのはもちろん避けるべきであるが、議論とケンカ、批判と誹謗中傷の区別をつけずに "揉め事感" にのみ反応しているように見える例が多い。 ニセ科学であるとして批判されているのが業者である場合→誇大広告等の規制(経済産業省) 事象の地平線 ---Event Horizon--- 一般人である(業者ではない)場合 何か一言、言わずにはいられない人達 「科学もニセ科学も似たようなもの」「○○がニセ科学かどうかなんてどうでもいい」 こういう物言いをする人は時々いるが、科学とニセ科学の違いについてろくに理解していない場合が殆どである。にも関わらずこういう事を言う人がいなくならないのは、この台詞に「麻薬的魅力」があるからである。 試しに「○○問題なんてどうでもいい」あるいは「○○も××も似た様なもんさ」と、なるべく感情を込めて(つまり、吐き捨てる様に)口に出してみると良い。その際、○○や××には現時点で最も世間を騒がせている話題を入れるのが良いだろう。口にした途端、自分が凄く偉くなった様な感じがする筈だ。 勿論これは錯覚である。しかしこういうメタ的な物言いは、メタ論そのものではないにも関わらず、一段上から見下ろした気にさせてくれるので、気分が良いのである。それが「麻薬的魅力」であり、一度その味を覚えた人は簡単には止められなくなってしまう。 ちなみに、そういう人の事を一部では「メタぶりっこ」と呼んでいる。 ニセ科学だと指摘されているものを、ニセではないと信じている人による反論 科学の方法論に関する無理解 「現代科学では解明されていないことも沢山ある」 当たり前.「科学で解明されていないこと」は科学者の飯の種である.あらゆることが現時点の科学で解明済であるなら,科学者は失業しているはずだ.「現代科学で解明されていないことが沢山ある」ことと,ある特定の "説" が将来的に科学として受け入れられる可能性があるかどうかは全く別問題である.「17世紀当時異端とされたガリレオの地動説は実は正しかった」からといって,異端説を唱える人すべてがガリレオになれるわけではない.(cf. ニセ科学の定義) 相対主義の悪用・誤用 「科学は唯一絶対の真理などではない」「何故科学だけが偉そうに他の立場を批判できるのか」 まず「科学(特に自然科学)」とは我々の生きている世の中の仕組みを解明し記述する学問だといえる。そうした科学の営みが人類の発展に多大な貢献をしてきたというのは紛れも無い事実なので、科学は尊重されているのである。 しかし一方で、科学がいくら自然の仕組みを解明しても「何故そうなっているのか」の疑問に対しては、科学は何も答えない。例えば「この宇宙は神が作ったのか、偶然そうなったのか」という類の疑問など、それを考えるのは科学の守備範囲外である。つまり「そもそも科学では扱えない問題がある」というのは当然であり、全ての科学者はその事をきちんと理解している筈である。もし理解していない人がいれば、それは「科学絶対主義者」であり、批判されるべきである。 つまり、まともな科学者であれば、科学以外の価値観を一概に否定したりしない。そもそも、全ての科学者は科学者である前に一人の人間である。人間を捨てて科学者になったのではない。 そのうえで、科学の枠内で扱える問題について、間違っているものに対して「間違っている」と指摘する事には何の躊躇いも要らない。それを「傲慢」とか「上から目線」とか言われると少し困ってしまう。科学の土俵に上がってきた相手に対しては全力で対応するのが誠意であり礼儀であると思うからである。このあたりは武道とかスポーツとかの感覚に似ているかもしれない。つまり、真剣勝負の場に上がってきている相手に対して「手加減してくれないなんて優しくない」「思い切りやっつけるなんてひどい」と言うのと同じ様な感じである。 増してや、科学のルールを無視して土俵に上がり込む様な輩や、ルールに従っている振りをして陰でインチキを行う様な輩は、勝負をする以前の段階でコテンパンにのされるのが当たり前だと思うのだが、如何だろうか。 「科学的な間違いを指摘するだけで済むと思っているのだろう」「科学者は科学だけが正しさの根拠だと思っている」 前項と似ているが少し違う。 「科学的な間違いを指摘するだけで済むと思っているのだろう」という意見の背景に「科学者は科学だけが正しさの根拠だと思っている」という誤解がある様に思う。確かに「非科学的」という言葉が「全否定の悪口」として使われる場合がある事は否定しない。しかし、これで全否定できると思っている人は、はっきり言って科学を理解していない。 「間違いの指摘」はニセ科学を批判するうえで重要な欠くべからざる要素ではあるが、決して全てではない。ニセ科学を批判する目的の項、及び下記リンク先の考察も参照されたい。 「ニセ科学批判」批判についての考察 檜山正幸のキマイラ飼育記 - なにかを主張すれば、なにかを否定することになる 今の「ニセ科学批判批判」が使えないのはなぜだろう? 事象の地平線 ---Event Horizon--- 黒猫亭日常:反科学の情熱 ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか? - NATROMの日記 受益者は当事者 - 玄倉川の岸辺 ニセ科学の非科学性を指摘することで信者は減るか? ニセ科学批判の到達範囲 事象の地平線 ---Event Horizon--- いくつかの疑似科学批判批判?についてのいくつかの違和感 - 思索の海
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/15.html
何故ニセ科学を批判するのか人それぞれ 「ウソはいけない」という動機 「社会に害をもたらす」という動機 「結局、自分達が損をするからやめましょう」という動機 「科学の発展を妨げる」という動機 「社会が住み難くなるのは嫌だ」という動機 「(初等的なレベルの)間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」 「その他」 リンク 何故ニセ科学を批判するのか 人それぞれ …と言うとまるで冗談のようだが、これは重要なポイントである。現実のニセ科学批判には実に様々な動機がある。従って、ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである(大多数のニセ科学擁護者は、もうこの時点で既に大きく間違えている)。ニセ科学批判はイデオロギーでもないし宗教でもない。 とは言え、ニセ科学批判の動機にも幾つかの典型的といえる考え方があるので、以下にそれを箇条書きにし、次項以下で詳述する。 「ウソはいけない」という動機 「社会に害をもたらす」という動機 「結局、自分達が損をするからやめよう」という動機 「科学の発展を妨げる」という動機 「社会が住み難くなるのは嫌だ」という動機 「(初等的なレベルの)間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」 「その他」 「ウソはいけない」という動機 「科学ではないのに科学を装う」のは単純に言ってウソツキだからいけないのである。 これには幾つかの反論が考えられる。まず「何故ウソがいけないのか」という反論があるかもしれない。しかし、残念ながらそれは(論じたいのはやまやまではあるが)「論点のすり替え」であると言わざるを得ない。何故なら、少なくとも我々が住んでいる社会においては「ウソはいけない」というのが一般的な合意事項だからである。 また、より現実的な立場から「許されるウソもある」という反論もあるかもしれない。確かにウソが許される場合もあるだろう。しかしそれはどのような状況でのウソなのかという事に強く依存する。つまり「許されるウソかどうか」は個別の状況を見て判断するしかないし、そういう特殊な状況はむしろ例外的である。従って、そのような特殊な状況であるという点が明確に示されない限りは「ニセ科学はウソであり、ウソは良くない」と判断するのが適切である。 更に「私には科学では無い事が容易に判断できるから、ウソにはあたらないだろう」という反論も考えられるが、これはどちらかというと定義の問題になるので、そちらを見て欲しい。 「社会に害をもたらす」という動機 上に述べた様に、単に「ウソはいけない」というだけでは反論の余地がある。また批判するにしても、道義的・道徳的な立場からの批判が中心にならざるを得ないだろう(勿論、そういう立場からの批判もアリである)。 一方で、批判対象を絞って、より強い批判を行おうという考え方もある。その場合の基準として考えられるのが「現に社会に害をもたらしているか、あるいは害をもたらす危険性が極めて高い」である。 この場合の批判は道義的なものに留まらず、もっと強いものになる。時には公的な手段や法律に訴えたりする事もあるかもしれない。「そこまでするなんて、お前は警察か」という意見があるかもしれないが、端的に言って「犯罪の予防と解決への協力は、市民の義務」なのではないだろうか(勿論「各自が出来る範囲内で」というのが原則である)。 「結局、自分達が損をするからやめましょう」という動機 上と似ているが、こちらは「害悪」の話ではなく「損得」の話である。 ニセ科学はしばしば、悪徳商法と結び付く。その中にも積極的に騙そうというものから善意で無邪気に信じ込んでいるだけのものまで様々な段階があるが、いずれにしても、このようなものに手を出して最終的に得をする可能性は殆ど無い。ウソをつかなければ出来ないような商売は、そもそも商売として成り立っていない。 「本人が喜んでやっているから良いではないか」という反論があるかもしれない。しかしこれまでの例を見る限り、巻き込まれた人、周囲の人々、最終的に破綻した事例等を総合的に考え合わせると「幸福になった人よりも不幸になった人の方が圧倒的に多い」と言わざるを得ない。 更に、このような商売が蔓延すると、直接関わった人が損をするだけでなく、まともに商売している人達の邪魔をする事になり、そちらにも損が及ぶ。それだけでなく、おかしな商売を取り締まる為の労力が増大していけば、それは社会の負担になり、最終的には「税金の値上げもしくは公共サービスの低下」という形で現われてくる。つまり、巡り巡って最終的には全く関係無い人達まで間接的な損失をこうむる結果になる。 大袈裟と思われるかもしれないが、どこかで歯止めをかけない限り、現実に起こり得る(というより、部分的には既に起こっている)話である。 「科学の発展を妨げる」という動機 どの分野でもそういう傾向があるが、ニセ物の方が本物より安易に結果が得られる(ように見える)。従って、ニセ科学が増えれば増えるほど、まともな科学は隅に追いやられていく。しかし勿論、ニセ科学は安易に見えるだけで成果が得られないので、結果として真面目に科学に取り組んでいる人がワリを食う。そしてその状況が長引けば、やがて科学の発展により恩恵をこうむってきた人(つまり、社会の構成員殆ど全て)にとって無視出来ない不利益をもたらす事になるだろう。 「社会が住み難くなるのは嫌だ」という動機 ここで「住み難い」とは前項で挙げた「科学の発展が阻害されて社会の構成員が不利益を蒙る」事も含まれるが、問題はそれだけではない。もし我々の社会で「見た目だけ繕った、受け取り手にとって都合の良いウソ」ばかりがもてはやされる様になったら、それは非常に住み難い社会になるだろうし、大袈裟に言えば「滅びへの道」であると考える。 また、そこまで極端にならずとも「ウソをウソだと指摘し難い社会」が住み難いだろうという事は容易に想像できるだろう。 「(初等的なレベルの)間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」 間違った知識が世の中に広まっているのは、単純に言って気持ち悪いので、訂正の為の努力をしているだけである。 「その他」 ここに上げたもの以外にも様々な理由が考えられるだろう。細かい事を言えば、人の数だけ理由があると言っても良いかもしれない。従って、それぞれの人がそれぞれの理由で批判する事は一概に否定されるものではない。しかし、一つだけ考えて欲しい事がある。 それは「自分なりの理由を明確に意識して欲しい」という事である。あなたの理由は、上に記した理由のどれかと一致するかもしれないし、全く別の理由なのかもしれない。いずれにしても「自分自身の心に対して、明確に理由を説明できる様にしておく事」が極めて大切であると考える。 さて「あなたの理由」は何だろうか? リンク それぞれの理由 なぜニセ科学を批判するのか 事象の地平線 ---Event Horizon--- So-net blog Chromeplated Rat 力不足(1) (※コメント欄も) PSJ渋谷研究所X 私にとってのニセ科学問題 ニセ科学を批判する理由 - 週間 鉄と工業と音楽 63 - So-net blog Chromeplated Rat リアリティ kikulog しゃべらなかったけど大事なこと コメント欄 (#154〜#172あたり) 僕がニセ科学問題に(ちょこちょこ)コミットしているわけβ版 - 思索の海
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/25.html
「科学ではない」という理由だけで批判する事は無い ニセ科学ではないものを批判しない訳でもない 「科学ではない」という理由だけで批判する事は無い 「ニセ科学の定義」のところを見てもらえれば解ると思うが「科学ではない」という理由だけではニセ科学とは呼べないので「ニセ科学批判」の対象にはならない。勿論、科学ではないものに対して「それは科学ではない」と言う事はある。しかしそれは単なる「事実の指摘」であって、必ずしも「批判」ではない。 一方で、当たり前だが「ニセ科学の批判」とは「批判する行為」である。現在ニセ科学として批判されているものは、いずれも科学であると「誤認させる要素」を含んでいる。従って、ニセ科学批判とは、その「誤認させる要素」を批判する事であると言って良い。 これは非常に重要なポイントである。 例えば「科学的には証明されていないが、実験で効果がある事が確認された」という表現。こうした言い方に納得してしまう人もいるが、これは明らかな詭弁なのである。何故なら、もし本当に「効果が確認された」のであれば、それは即ち「効果が科学的に証明された」という意味になるからである。この際、必ずしもメカニズムが解明済みである必要は無い。 勿論どんな効果であっても100%という事は無く、場合により効果があったりなかったりするのが普通である。従って、たとえ一見して効果があるように見えても、それが偶然なのか、他の要因によるものなのか、等を見分けるのが「科学的な手続き」なのである。 意地悪な言い方をすれば「偶然の結果を都合良く解釈したい人」にとっては、科学的手続きなど邪魔でしかない。 ニセ科学ではないものを批判しない訳でもない 前項と矛盾していると思われるかもしれないので、もう少し説明する。 「ニセ科学批判者ならニセ科学だけ批判していれば良い」という言い分を見た事もあるが、たとえニセ科学ではなくても、おかしいと思った事に対しては批判する場合もある。その良い例がカルト宗教やオカルティズムの流布であり、これらは批判されるべきである。しかし科学を装わない限り「ニセ科学であるという理由での批判」は出来ない、それだけの事である。 実際に、カルト批判やオカルト批判を行なう人とニセ科学を批判する人はしばしば同一であり、また文脈によってはこれらが絡めて論じられる事もある。そういう場合には「批判対象が明確で無いので解り難い」と言われてしまうのも一理ある。 読者にもニセ科学とそれ以外のものとの区別を理解して欲しいと希望する(だからこそこのWikiも存在する)のだが、一方で批判者も批判対象を明確にすべき、という点は肝に命じたいと思う。
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/19.html
本 疑似科学と科学の哲学 わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか—ニセ科学の本性を暴く (文庫) メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 人はなぜエセ科学に騙されるのか 上・下 超常現象をなぜ信じるのか―思い込みを生む「体験」のあやうさ 奇妙な論理〈1〉 (文庫)・〈2〉 なぜ人はニセ科学を信じるのか〈1〉(文庫)・〈2〉 謎解き 超常現象 おかしな科学―みんながはまる、いい話コワい話 懐疑論者の事典 上・下 代替医療のトリック 雑誌 科学 (2006) VOL.76 NO.9 特集 疑似科学の真相/深層をよむ -- なぜ信じてしまうのか 論座 2007年2月号 特集 ニセ科学を考える 化学 2007年4月号 特集 ニセ科学を見抜くための基礎講座
https://w.atwiki.jp/cactus2/pages/18.html
判断のガイドライン ニセ科学商品の多くは,科学知識がなくても「アヤシイ」と判断できる. 小難しげな用語を並べた「原理」の説明を前にしても,思考停止しないことが重要. 参考になるサイト 疑似科学の見分け方 疑似科学を見分けるチェックリスト ニセ科学の見分け方 - 妄想科學日報 覚えておきたい、ニセ科学リスト - 妄想科學日報 いんちき、詭弁を見抜くための資料 「健康にはなりたいけれど、そこまではちょっと、、、」という方へ -- 健康本の世界 健康情報を評価するフローチャート -- Tsubono Report 健康情報の読み方 -- おないのホームページ 検索で判断するためのコツ 以下はkikulog のコメント欄より。 #63. タウザー -- February 18, 2007 @00 51 48 突然失礼します。話が急にかわってすみません。美容器具に“バイオプトロン” というものがありますが、化学的に根拠はあるとおもわれますか?どうしても よくわからないのです。 ニセ科学ですか? #64. たかぎF -- February 18, 2007 @02 08 06 タウザーさん このテのものがアヤシイかどうかは,大抵の場合,科学の知識がなくても判断 できます. 1.「バイオプトロン」で検索→光が関係あるらしい 2.「バイオプトロン 光」で検索→「可視光理論」なる単語がでてくる. 3. 「バイオプトロン 可視光理論」で検索 →「ノーベル賞科学者アルバート・チェンツ・シンヨール氏の可視光理論」やら 「ノーベル賞受賞科学者フィンセン博士の可視光理論」やら「ノーベル賞科学者 アルベルト・セント・ジェルジ氏の可視光線理論」などがでてくる. "理論"の提唱者の名前が複数でてくるし,ノーベル"何"賞なのかもわからない. 4. Wikipedia でノーベル賞受賞者を調べると,ノーベル生理学・医学賞の ニールス・フィンセン氏(1903年受賞)とアルベルト・セント=ジェルジ (1937年受賞)がでてくるが,「アルバート・チェンツ・シンヨール」なる 人物はいない. 5. "可視光線理論" がどんなものであるか,「"可視光線理論" site ac.jp」で 学術機関(ac.jp)限定で検索すると,goo だと検索結果 0件,google だと 検索結果がでてくるが,トップにでてくるサイトでさえ "可視","光線", "理論" がバラバラに含まれるだけの皮膚とはなんの関係もない研究のサイト. つまり "可視光線理論" という単語を含む学術機関のサイトは,存在しないらしい. ノーベル賞をとった "理論" について書いている学術機関がない,というのは, かなりあり得ない. えーとつまり,まとめると, 製品の原理の説明に,存在しない "ノーベル賞科学者" の名前がでてきて, 元となる "理論" の研究をしている人が見当らず,その "理論" の名前で 検索すると美容器具を売っているサイトばかりがひっかかる. …という代物ですが,これがまともな製品だと思われますか? #75. たかぎF -- February 18, 2007 @12 50 22 (前段省略) 「その製品の "原理" を説明しているとおぼしき個所をみつけて, そこからキーワード("○○理論" とか提唱者の名前とか)をひろって, 検索してみる」という手順は,自力で思いつかないかもしれません. "○○理論" を検索するのに site ac.jp をつけてみるというのは, 検索慣れしていないと思いつかないでしょう. しかし,そういうやり方がある,ということがわかれば,あとは 「"原理" を説明しているらしい個所を探す」のも「説明のポイント になっていそうなキーワードを探す」のも,必要なのは国語力です. 単語の意味が理解できなくても,まともな文章であればどこが ポイントかはわかるはずです.というか,それがわからないくらい に意味が通らない文章だったら,その時点で「アヤシイもの認定」 していいでしょう.
https://w.atwiki.jp/cloud9science/pages/128.html
2009-03-21 2009-03-25 追記あり 2009-04-25 さらに追記 photo from Wikipedia 水からの伝言 そもそもニセ科学とは 図書の分類 市立図書館でお願いしてみた このページを読んだあなたへの個人的なお願い図書館司書の方へ 子どもを持つお父さん、お母さんへ ニセ科学に反対する市民のみなさんへ 基本にして結論、アルファにしてオメガ はてブコメントをいただきました(2009-03-25追記) 新しい場所に移動しました(2009-04-25追記) 参考サイト 関連項目 水からの伝言 『水からの伝言』という本があります。著者の江本勝は、水を凍らせるときに「ありがとう」や「平和」など「よい言葉」をかけると美しい雪花状の結晶ができて、「ばかやろう」や「戦争」など「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができる、と主張しているのですが、この本は有名なニセ科学書で、科学的な価値は何もありません。この本のどこがどう間違っているのかは、すでにあちこちで取り上げられています。『水からの伝言』について、詳しく知りたい方は以下のリンク先を参照してください。 まず最初に基本はこちら →「水からの伝言」を信じないでください 学習院大学理学部 田崎晴明教授のサイト 簡単に理解したいなら、親子の会話を通じてやさしく表現されたこちら →Interdisciplinary 或る親子の会話:水伝編 TAKESANさんのブログ そもそも科学以前に言語学的に間違ってるだろう、という指摘はこちら →「水からの伝言」に言語学の立場から反論する 思索の海 dlitさんのブログ その他にも、その気になって探せばたくさんあります。Wikipedia>水からの伝言もいいでしょう。 そもそもニセ科学とは 科学ではないのに科学であるかのように装ったものをニセ科学といいます。疑似科学やエセ科学ともいいます。多くの科学者(だけでなく普通の人にも)に追求された江本勝は、2005年12月5日号の週刊誌AERAで、『水からの伝言』を「ファンタジー」「ポエム」である、即ち科学ではなく物語であると言い訳しました。しかし、江本が経営する株式会社I.H.M.のトップページには「波動と水を科学する」と表記されています(2009年3月21日現在)。 図書の分類 『水からの伝言』はニセ科学の本であって科学書ではないのですが、近所の市立図書館では、自然科学>化学>無機化学のコーナーに並んでいます(2009年3月7日時点)。ノーベル化学賞候補といわれている飯島澄男・名城大学教授の『カーボンナノチューブの挑戦』と並んでいます。 先日、yamada_radio_clinicというブログの図書の分類_2というエントリーで、図書館での『水からの伝言』の分類を、435(無機化学)から147(超心理学・心霊研究)に変えてもらった、という記事を読みました。そんなことができるんだ!というわけで私も市立図書館に行ってみることにしました。 市立図書館でお願いしてみた 市立図書館の無機化学のコーナーにあった『水からの伝言』と関連書籍を持って司書の相談コーナーに行き、プリントアウトしておいたyamada_radio_clinic のページを見せて、事情を説明してきました。ついでに、市立の小中学校の学校図書室についても同様の心配があることを伝えました。司書は「検討してみます」とのことで、『水からの伝言』は開架からいったん引き上げられました。 カール・セーガンの本とグラハム・ハンコックの本が天文学のコーナーに並んでいるのも、なんだかなあ、という感じです。 このページを読んだあなたへの個人的なお願い 図書館司書の方へ 子どもたちや市民を対象にした『水からの伝言』と『水はなんにも知らないよ』の読み比べを企画してみてください。間違った本をただ遠ざける(これは一種の検閲です)のでは、せっかくの勉強の機会を逃すことにもなります。これは、情報を比較し評価する能力を身に着けるためのよい材料になると思います。 子どもを持つお父さん、お母さんへ お子様の学校図書館で、科学のコーナーに『水からの伝言』などのニセ科学書が紛れ込んでいないか、問い合わせてみてください。そして学校司書に、上の提案をしてみてください。 ニセ科学に反対する市民のみなさんへ あなたの住む町の公立図書館で、あなたの通う学校の図書室で、科学のコーナーに『水からの伝言』などのニセ科学書があれば、図書の正しい分類について、司書にそのことを話してみてください。 ニセ科学によって国家が崩壊の危機を迎えている、南アフリカ共和国のような例があります。日本から、人類から、すべてのニセ科学が追放されることはないのだろうけど、少なくともそれがはびこってしまうような状況にならないように。子どもたちにそんな未来を残さないように。そう願っています。 基本にして結論、アルファにしてオメガ tikani_nemuru_Mさんのブログ地下生活者の手遊びのエントリーまっとうなニセ科学批判・批判とは何かから一部を引用します。 現代社会において自然科学が一種の正統なる権力として機能しているということ、 ニセ科学はそうした正統性を擬装して、不当な権力を目的とした運動であることを考慮すると、 個別のニセ科学を具体的に論拠を示して叩いていく、飽かずに声をあげつづけることこそが、 基本にして結論、アルファにしてオメガなのではにゃーのだろうか? 私は、私のアルファ(第一歩)を実行に移してみました。あなたは、あなたのアルファを、ぜひ実行に移してみてください。 はてブコメントをいただきました(2009-03-25追記) 私の記事では本当に珍しいことなのですが、はてブのコメントをいくつもいただきました。 はてなブックマーク - cloud9scince @Wiki - ニセ科学と図書館 - そのうちのいくつかに、答えてみたいと思います。間違い、勘違いがありましたらコメント欄で教えてください。 matasaburoさん:これはすごいこと matasaburoさん、ありがとうございます。でも、まったくそんな評価には値しないと思っています。謙遜なんかじゃなくて、本当にたいしたことはしていません。yamada_radio_clinic のYamadaさんのなさったことをただマネしただけだから。きっかけを作ってくれたことも含めて、すべてはYamadaさんのおかげです。 T-3donさん:水伝はともかくマクロビ系はちょっと悩む所。 そうですね。「水伝」については、図書館における分類の基本となる図書館流通センター(TRC)の分類が、「超心理学・心霊研究」に変更されているため、図書館はただそれに合わせただけ、ともいえます。TRCの分類がそのままなら、分類の変更依頼が拒否されることも十分にありえるわけです。そんなわけで、使命に燃える図書館司書が欲しい、と思いました。読み比べを企画するのが難しかったとしたら、ニセ科学とそれを批判する本を並べた特設コーナーを作ることだって司書ならできるわけで。 「水からの伝言」VS「水はなんにも知らないよ」、「衝突する宇宙」VS「サイエンス・アドベンチャー」、「ズバリわかる!血液型性格BOOK」VS「血液型と性格」など。もっといい例もあると思うけど、パッと思いつきせん。何かいい例があったら教えてください。 kamezoさん:素晴らしい実践報告。後半の提案部分も素敵。 kamezoさん、ありがとうございます。求む、心ある図書館司書!そして、求む、子どものために立ち上がるお父さん、お母さん!ですね。 yumizouさん:図書館の分類として考えたとき、ニセ科学も科学関連には違いないだろうしなあ。 yumizouさんのおっしゃるとおりで、ニセ科学は「科学」ではないけど「科学関連」ですね。でも私は、ニセ科学を主張する本はやはり科学から外すべきではないかと思います。現在では、「科学」とは何かについて、かなり明確なコンセンサスが成立しています。これは主に、アメリカにおける創造論と進化論の対立の過程で明確にされたのだと思います(でいいのかな?)が、その条件に合うか合わないかで、完璧とはいえないかもしれないけれど、「科学」と「ニセ科学」はかなり明確に区別できると思います。そして、区別できるのなら(区別できるものから)、科学でないものは科学から外すべきだと思います。 kanimasterさん:学説が覆されるたびに図書の分類が変わる? 「ニセ科学」と「間違った学説(科学)」は別物です。たとえば天動説は間違った学説であってニセ科学ではありません。天動説は天文学の一部です。天文学を学ぶ上で、天動説は避けられないと思います。カール・セーガン(惑星天文学者)は、科学の方法論を学生に教えるにあたって、天動説を利用していたそうです。 surumeno13さん:錬金術に関する本も自然科学に分類されていたりするしなぁ。 錬金術も、当時の不十分な科学に依存した「間違った科学」であって「ニセ科学」ではないと思うのですが、いかがでしょうか。そういえばニュートンは、物理学の研究以上に錬金術の研究をかなりやっていましたね。 その他、ここには取り上げませんでしたが、コメントいただいた皆さん、ブックマークしていただいた皆さん、ありがとうございました。 新しい場所に移動しました(2009-04-25追記) 登録の変更をお願いして1ヶ月たち、「水からの伝言」関連書籍が147(超心理学・心霊研究)に移動しました。新しい場所では江原啓之と並んでいます。 改めて眺めてみると、この147(超心理学・心霊研究)という分類はスゴイ面子がそろってますね。横に並んでいる「ジュセリーノ予言集」というのは、Wikipediaを見ると、後出しじゃんけんで予言(?)する人の本のようです。 登録の変更をお願いして開架から引き上げられた後、しばらくの間はどこにも見当たらず、もしかしてクレームが面倒で、司書の方がそのまま閉架行きにしてしまったのでは、と心配していました。もしそうならそれは検閲にも等しい間違った行為なので、またまた司書にお願いしなくちゃ、と思っていたのでした。それが杞憂に過ぎなくてよかったです。 参考サイト yamada_radio_clinic>図書の分類_2 図書館の自由に関する宣言 地下生活者の手遊び>まっとうなニセ科学批判・批判とは何か 関連項目 HIV検査を受けてみた 関東地区女性校長会と『水からの伝言』 コリン・パウエルが私たちに語ったこと 壁と卵の間で:村上春樹 エルサレム賞受賞講演 科学的であるはずの現代医学は大きな間違いをしている。正統科学であり擬似科学ではないが、真正科学ではない、失策科学とでもいうべき。正統科学がすべて真正科学とは限らない、だからパラダイム転換が起きる。例えば、二重盲検法や統計によって検証することが科学的ということにはならない。ある物理的作用を簡単な法則性に従って加えれば、いろいろな病気が即効的に完治する。慢性肝炎や喘息・うつ病が一日で治癒してしまう。これは事実であり、物理的作用を加えたのであるから物理法則に従っているはずである。物理法則は極めて再現性が高い。しかるに、二重盲検法や統計は、ランダムな現象であることを前提としている。科学は経験的事実を対象とするものであり、数学的に成り立つことが事実であるとは限らない。現代医学は、論理や方法、適用すべき法則を間違えている、だから効果的な治療が行えない。いくつかコメントを書き込んでいます。「近々未来」・「失策科学」などをキーワードとして検索してください。 -- 近々未来 (2009-08-01 00 41 33) 近々未来さん、コメントありがとうございます。 当サイトの管理人のyu-kuboです。 えーーっと、大変申し上げにくいのですが、非常に残念なのですが、私はあなたのコメントをまるで理解できません。1㍉も理解できないでいます。追加で説明をいただいても理解できるとは思えないので、再度のコメントはご遠慮申し上げます。 -- yu-kubo (2009-08-04 20 08 05) 笑うしかありませんね。まあ、そんなものでしょう。現代物理学とはどのようなものか、そして、科学哲学を少し勉強しましょう。では、さようなら。 -- 近々未来 (2009-08-05 16 03 13) 近々未来さん、あなたが「コメントは遠慮して欲しい」という日本語を理解できないことはわかりました。 とても残念です。 -- yu-kubo (2009-08-11 07 08 20) EM菌とか脳科学とかも置いてあるのでしょうか? 脳科学にいたってはまともなものの方が少ない印象。。 -- lain (2015-08-19 09 21 43) 名前 コメント Copyleft2005-2009, yu-kubo.cloud9 all rights reversed